update:2019/6/27
植物にとって富栄養(ふえいよう)とは、肥料分が豊富なことです。窒素(N)、カリウム(K)、リン(P) などいわゆる肥料の三大要素や、カルシウム(Ca)、マグネシウム(Mg)その他様々な無機物が肥料となります。
富栄養に対して、肥料分が少ないことを貧栄養(ひんえいよう)といいます。
肥料分が多いことは、植物には良いこと、と想像されるかもしれませんが、なかなか単純ではありません。
渡良瀬遊水地には、明治時代まで谷中村などがありましたが、その頃からくらべると全体的に富栄養化が進んでいると思われます。
我が国では明治時代以降、化学肥料が作られるようになって、田畑を中心に全国で大量にまかれるようになりました。
また家庭で普及した合成洗剤などの成分に窒素やリンが含まれており、河川に流されました。
工場からの雑排水にも様々な栄養塩類が含まれていました。
そのようなことから、とりわけ人の住む低地においては、どこでも急激な富栄養化にさらされることになりました。
その影響は、大正以降無人となった渡良瀬遊水地にも色濃く存在しています。
水中に生育する植物があります。
顕微鏡で見なければならない小さな植物プランクトンから、花を咲かせる顕花(けんか)植物の水草まで、いろいろな種があります。
水中の肥料分が多くなるとどうなるのでしょう。
水の富栄養化の問題は、諏訪湖、霞ヶ浦、琵琶湖などでの事例がよく知られています。
湖などが富栄養化すると、まずアオコなどの植物プランクトンが大発生するのです。
渡良瀬遊水地の谷中湖でもアオコが発生します。
水の富栄養化はアオコにとってはありがたいことでしょう。
しかし、景観の悪化、悪臭の発生の他に、水の透明度の減少、水中の溶存酸素量の減少などが、他の生物の生存に重大な影響を及ぼします。そのため生物多様性が大きく減少する(生きていける生物の種数が減る)のです。
つまり、特定のものが増えることが環境を大きく変え、他を住めなくしてしまうのです。
水草の類にとってはどうでしょう。
さまざまな水草は好む栄養環境が異なり、貧栄養を好むものから富栄養を好むものまでいろいろなのですが、その種類が多い順は、貧栄養 > 富栄養 > 過栄養 です。
意外と思われるかもしれませんが、肥料分の少ない水域の方が、多種多様な水草が豊富に生えているのです。
アオコが発生するような環境は富栄養よりさらに進んだ過栄養で、こうなると生育できる水草はほとんどありません。
じつは渡良瀬遊水地の谷中湖には水草がまったく生えていないので、過栄養かもしれません。
図1は明治42年発行の地形図ですが、西北部に大きな池があることがわかりますね。赤麻沼です。
赤麻沼は漁業などが盛んでこの地域の当時のシンボルでした。このあと昭和初期(図7)には埋まってなくなってしまうのですが、渡良瀬遊水地はその後もしばらく赤麻湿地などと呼ばれていました。
赤麻沼は、かつての赤麻沼を知る人によって「底まで透き通り、水際に立っただけで魚が足を突っついた。夜に涼みに行けば、無数の蛍が飛んでいた。・・」と語られています(文献1)。
また江戸時代中期の文書に、藻草(池に生える水草)の刈り取りをめぐって村と村の争いがあったことが記されています(文献2)。このことは、田畑の良い肥料となる水草が大量に生えていたことを示しています。
そのように水がきれいで水草がたくさんあったということから、赤麻沼は貧栄養だったと考えられます。
おそらく水草の種類も多かったと思われるのですが、当時どのような種があったかの文献は見つかりません。
現在の渡良瀬遊水地では、そのように水のきれいな池はほとんどなく、程度の差はあっても一様に濁っています。
そして重要なことは、水草は全体として少ないのです。
現在最大の池である谷中湖(渡良瀬貯水池)には水草がまったくありません。
また池内水路には、ヒシが水面をおおっている所もありますが、水中の水草の種類はかなり少ないです。
例外はあります。
越流堤の下にコンクリートの桝(ます)ができていて、そこにきれいな水がたまっています。
ここには繊細な水草がいろいろ生育しているのです。
水がきれいなことから貧栄養と考えられ、そのために生育できる水草があるのだと思われます。
水草は、現在国の絶滅危惧種に指定されているものがとても多いのです。
理由は、全国から湿地や池が急激に無くなったこと、水の富栄養・過栄養化がすすんでいるためです。
渡良瀬遊水地には、渡良瀬川(わたらせがわ)、巴波川(うずまがわ)、思川(おもいがわ)のほかに、小さな水路もあり、それらから富栄養化した水が流入します。
また以下で述べるように、土の富栄養化があり、そこからしみ出す水も富栄養化していると想像されます。
そのようなことから、渡良瀬遊水地の池沼・湖の多くは富栄養化・過栄養化していると思われ、透明度は低く、水草類の多様性は低いです。
渡良瀬遊水地では、現在ヨシとオギの群落が優勢で、密集し4~5mにも達しています(図2)。
この立派なヨシとオギは、冬季に刈り取られて(ヨシ刈り)、ヨシは葦簀(よしず)に、オギはかやぶき屋根の葺き替えに使われます。
ヨシ刈りは渡良瀬遊水地の冬の風物詩となっていますね。
しかし、遊水地全域のヨシ・オギのすべてが4mに達する立派なものかというと、けっしてそうではありません。
この画像(図3)ではヨシが生えていますが、まばらであり、その高さは1mくらいにしかなっていません。人の背丈よりも低いので向こうまで広く見渡せます。
工事などで土が掘られた後の数年後もこのようになっていることがありますが、たいていヨシ・オギは10年もたたないうちに立派に生長しうっそうとした群落になってしまいます。
しかし、この場所は少なくとも40年以上このままなのです。
なぜこのような違いがあるのでしょうか?
原因として考えられるのは、土の違いです。
具体的に想像すると、一つは水分です。
ところが、遊水地内で調べたところ、高い群落と低い群落それぞれどちらにも同じように異なる水分環境があるので、水分が直接生育の違いに影響しているわけではないことがわかります。
すると、唯一考えられることは、
土の中の肥料分です。
肥料が多ければ大きく生長しますよね。
渡良瀬遊水地の成立は足尾鉱毒事件と深く関わっています。
ここは渡良瀬川、巴波川、思川の合流する低地で、明治時代まで人々が堤防を造って水害から村を守りながら暮らしていました(図4)。 ただし、「この地域が水害の被害を大きく受けるようになるのは、近世初めの利根川の東遷事業(瀬替え)による影響が大きいといわれる。江戸時代の中頃までは堤防はなく、元禄九年に初めて堤防が築かれたという。」(文献3)
明治23年頃から足尾鉱毒事件が表面化し、渡良瀬川流域は上流の足尾銅山から流下する銅(Cu)を主にした鉱毒によって大きな被害を受けました。
田中正造が中心になって地域住民と共に奮闘したことはよく知られていることです。
帝国議会やマスコミを巻き込んで当時の大社会問題になりましたが、政府の最終的な結論は、渡良瀬川の流路を変え、ここを無人の遊水地にして上流下流の洪水の緩和と、鉱毒の沈殿をはかることでした。
1906年(明治39年)に谷中村が強制廃村となり、翌年家屋の強制破壊が行われました。その後も16戸が谷中村残留民として残りましたが、1917年(大正6年)にすべて移住して無人の状態となりました。
1918年(大正7年)に渡良瀬川の流路が付け替えられて現在のようになり、増水のたびに大量の土砂が運び込まれて大きく環境が変わったと考えられます。
渡良瀬川はそれまで栃木市藤岡町の西側を流れていましたが(群馬県と栃木県の県境)、赤麻沼に注ぐように変えられたため、赤麻沼はどんどん埋まっていきました。昭和4年の地形図(図7)でそれがよくわかります。
大正7年に渡良瀬川の流路が変えられ現在のようになりましたが、その後大きな洪水などが発生したときに土があふれて堆積するようになりました。
それによって富栄養化した土壌が持ち込まれたと考えられます。
当時は囲繞堤(図8)が造られていなかったので、大洪水の際にはかなり広く土砂が運び込まれたでしょう。
その後、1963年(昭和38年)から囲繞堤の建造がされていき、第1調節池、第2調節池、第3調節池に区分され(図8)、極度の増水時以外は調節池内に大河川の水が入らないようになったので、現在は土が運び込まれる機会は減っています。
ところで図9をご覧ください。
これは、高さの高いヨシ・オギの群落(赤)と,低い群落(青)がどのように分布しているかを示したものです(文献5)。
青の低い群落は、北部と中央西部などにあることがわかります。
ヨシ・オギの高さを決めているのは肥料分と考えられます。
ということは、そこは貧栄養地です。
この2つの場所の共通点は、河川から遠いということです。
するとここは、洪水の際にあふれた土砂が届きにくかったのではないかと想像されるのです。
河川の運び込む土は肥料分が豊富なので、それによって遊水地は広く富栄養化される一方、土の届きにくかった場所が貧栄養のまま残されていると考えられます。
そのように渡良瀬川の流路変更によって渡良瀬遊水地の土壌は富栄養化したと考えられ、そしてヨシとオギは非常によく生長するようになりました。
ヨシ・オギがよく育った(3m以上の)群落(図10.11)と、まばらで低い(2m未満の)群落(図12.13)で、それぞれどんな植物が生えているかを現地調査しました。
その結果次のようなことがわかりました(文献5)。
なお、調査方法はヨシ刈り・ヨシ焼きの項のときと同じで、1m×1mの方形枠(コドラート)を設置し、その中に生えているすべての植物の種名と被度を記録します。この調査では112のコドラートを調べました。
まずわかったことは、種数の違いです。
グラフ(図14)をご覧ください。高い群落(富栄養地)では1×1mの中に生育している種数の平均値は6.1種ですが、低い群落(貧栄養地)では10.4種でした。
つまり、貧栄養地の方がたくさんの種が生育しているということです。
肥料分が少ないのになぜ種数が多い(多様性が高い)のか。
逆に富栄養地で多様性が低いのはなぜかです。
理由は次のように考えられます。
ヨシ・オギが高く生長し密集するようになると群落内が暗くなります。そのために光が必要な小型の種が適応できなくなるからです(文献11)。
これは、アオコが大発生すると環境が大きく変わってしまうことで生物多様性が減少することと似ているかもしれませんね。
このときの調査では、コドラートの水分環境を3段階に分けて記録しているのですが、結果はグラフ(図15)のとおりです。
水分の最も多い過湿地では、高、低のいずれでも種数が少なく、とりわけ高では2種(ヨシとカサスゲ)しか記録されませんでした。
過湿の環境に適応できる種は多くないと言えます。
そのときの調査結果を一覧にしたものが右の組成表(図16)です(文献5)。
(数字や+の記号は被度を表しています。)
青の背景はヨシ・オギが2m以下の貧栄養地、赤の背景が3m以上の富栄養地です。
出現種のタイプが3つに分かれていることがわかります。
青枠は、貧栄養地を好むもの。
赤枠は、富栄養地を好むもの。
緑枠は、その両方に出るもの。
比較的きれいに分かれています。
これほど明瞭な違いはある意味驚きと言っていいほどです。
貧栄養地と富栄養地では平均種数が異なるだけではありませんでした。
構成する植物相も大きく異なっているのです。
貧栄養地の代表種
ケナシチガヤ、チゴザサ、トダシバ、ヌマトラノオ、ヒメシオン、ホソバオグルマ、イヌセンブリ、タチスミレ、アリアケスミレなど
富栄養地の代表種
ワタラセツリフネソウ、アオミズ、ヤブガラシ、イヌタデ、スズメウリ、ゴキヅル、サデクサ、トキホコリなど
両方に出る代表種
ヨシ、オギ、カサスゲ、ツルマメ、ハンゲショウ、コウヤワラビ、ヤナギタデ、ヒメジソ、カナムグラなど
渡良瀬遊水地の最大の価値は、絶滅危惧種が極めて多いことですが、右の調査で出現した絶滅危惧種の数は、
貧栄養地 8種
富栄養地 1種
両方 0種
判断できない 3種
でした。
以上のことから、貧栄養地と富栄養地とではそれぞれの植物相が大きく異なることと、貧栄養地の方が植物の種多様性が高く同時に絶滅しそうで保全の必要のある植物がはっきり多いことがわかります。
かつて、赤麻沼から北の部分には、人が住まず池沼が散在していました(図5・6・7)。ここは藤岡台地の南側に当たり、台地からのしみ出し水や小河川からの水が巴波川の後背湿地に滞留したものと考えられます。
台地からのしみ出し水は栄養分に乏しいためこの地域はおそらく著しい貧栄養で、人々が農業などに利用することは難しかったと思われます。
一方南部や東部では、人々が集落を堤防で囲って住んでいたことから、さまざまな環境があったと想像されます。
現在の第1調節池に当たる地域には、下宮、恵下野、内野村(時代とともに変遷がある)があり(図17)、それらが明治22年の合併によって谷中村になりました。
第2調節池には、下生井村がありました。
明治時代の谷中村では、その面積のおよそ半分が未開の湿地帯で、人の住む集落は小高い自然堤防上などにあり、耕作地は主に畑で、大麦、小麦、大豆が栽培され、水田は畑地の半分以下だったとされています(文献6)。
また明治20年代より養蚕業が始まったとあります(文献9)。
その他として、菅笠作りが現金の得られる最も重要な副業で、この地方の一大産業でした。
これはカサスゲを編んで作りますが、そのためのカサスゲを育てる場所をスゲッタ(スゲ田)と呼んでいました。
よしずの生産については、明治期にそれらしい記録はあるが、本格的に生産が始まるのは廃村以降のことと思われる、とあります(文献9)。
ヨシを用いた産物は、よしずではなく、網代(あじろ)で、菅笠と並んで重要な生産品だった、とあります(文献9)。(ヨシで作られた網代がどのようなものだったかは、資料が見つからず不明です。)
また、ヨシは家庭用の燃料として利用されていたとあります(文献10)。
一般に河川に近い土地では肥えた土が河川から流入するので肥沃になります。
江戸時代ここにあった村々(下宮郷各村)の地味は肥沃であり、生産量は他の村々と比較して遜色はない、ただ実態は洪水・干ばつの被害に侵され収穫の一定しない地域だった、とあります(文献7)。
村人は田畑に作物を栽培し、そこは施肥をしていたと考えられます。
一方、赤麻沼、赤渋沼近辺、あるいはその北部などには未開の原野が広がっていて、貧栄養で利用の難しい土地だったと考えられます。
かつての植生については推測の域を出ないのですが、池、湿地から人里の乾燥地に至るまで多様な水環境があり、また貧栄養、富栄養といった要因がそれに加わるため、たいへん多様な植物たちがそれぞれに適した場所で暮らしていたのではないかと想像できます。
未開の湿地・荒れ地の面積が広大だったため、貧栄養を好むものはそのような場所でごく普通に生育していたと思われます。
しかし現在それらは遊水地の中で限られた場所でしか見られなくなっており、将来的には絶えてしまうことが懸念されるものが多いと考えられます。
図9を再びご覧ください。
東部(第2調節池)にも貧栄養の低い草原があります。
航空写真で見るとここは1974年(昭和49年)より前に土が採掘されてできた低地です。
渡良瀬遊水地では昭和38年から囲繞堤を建造するために、少しずつ場所を変えながら土の採掘が行われてきたので、ここもそのために掘られたのではないかと思います。
この場所の植物相は、基本的に他の貧栄養地と同様と言えます。
おそらく一度富栄養の土で覆われながら、それが取り除かれたため、眠っていた昔の種子が復活したのではないかと想像できます。
関連して、5.土壌の掘削と植物の遷移 をご覧ください。
かつて貧栄養地に生育していた種の多くは、生育環境を失いました。しかしかろうじて土壌中で休眠していたものが、土壌の掘削・採掘によって復活することがあるのです。
このことも現在渡良瀬遊水地の多様性を維持している重要な要因となっています。
渡良瀬遊水地は、大正7年以降、渡良瀬川が洪水のたびに土砂を運び込んだためそれが堆積し、広く土壌の富栄養化が起こりました。そのことがこの土地の自然環境を大きく変える原因になったと考えられます。
水路・池沼・湖の富栄養化・過栄養化のために、水草類は一般に生育しにくい環境となっており、水草の多様性は低いです。
土壌の富栄養化はヨシ・オギの高さで判断できます。
ヨシ・オギが高く生長した場所は富栄養地、低いままの場所は貧栄養地と判断できますが、それに伴って生育する植物に大きな違いが見られます。
種数を比較すると、貧栄養地の方が明らかに多く多様性が高いと言えます。
またそれぞれの植物相が大きく異なっており、貧栄養地に特異的に見られるものに絶滅危惧種がはっきり多いことがわかります。
そのため生物多様性保全の視点からは貧栄養地が特に重要と思われますが、現在その面積は広いとは言えません。
土壌の掘削工事によって、かつての貧栄養地に生育していた種が復活することがあります。
1 | 花輪和也(編著) | 2008 | 赤麻沼 豊かさ、恩恵伝わらず | 『鉱毒に消えた谷中村 田中正造と足尾鉱毒事件の100年』 随想社p.72-73 | |
2 | 小貫隆久 | 2001 | 赤間沼周辺の村々 |
『藤岡町史 資料編 近世』藤岡町p.326 |
|
3 | 石川明範 | 2004 | 谷中村の誕生と村債起債問題 | 『藤岡町史 通史編 後編』藤岡町p.245 | |
4 | 熊倉一見 | 2001 | 治水 | 『藤岡町史 資料編 谷中村』藤岡町 p.181 | |
5 | 大和田真澄 | 2019 | 渡良瀬遊水地の土壌の富栄養化が植物相に及ぼす影響 | 「フロラ栃木 第27号」栃木県植物研究会 p.29-36 | |
6 | 熊倉一見 | 2004 | 農業の発展と養蚕業 | 『藤岡町史 通史編 後編』藤岡町p.308-309 | |
7 | 小山弘二 | 2001 | 村々の姿 中世の下宮郷について |
『藤岡町史 資料編 谷中村』藤岡町p.10-11 |
|
8 | 石川明範 | 2001 | 谷中村の成立 | 『藤岡町史 資料編 谷中村』藤岡町p.78 | |
9 | 熊倉一見 野澤幸夫 徳田代吉 | 2001 | 生業と経済 | 『藤岡町史 資料編 谷中村』藤岡町p.110-111 | |
10 | 津布久貞夫 | 2001 | よしず編み | 『藤岡町史 別巻 民族』藤岡町p.96 | |
11 | Hautier, Y; Niklaus, P A; Hector, A | 2009 | Competition for light causes plant biodiversity loss after eutrophication | Science, 324(5927):636-638. |
(文責 MO)
植物の概要と環境要因へ戻る 植物の概要へ 環境要因へ 植物リスト文献記録へ